2019-05-31 第198回国会 衆議院 文部科学委員会 第17号
さらに、一九五九年、石橋湛山先生が周恩来さんに手紙を書き、その中で、できる限り国境の障碍を除去しと、この障碍は「碍」を使って、できる限り国境の障碍を除去しと、「碍」を使って手紙を書き送っています。 私、そもそも、一九四六年に、当用漢字表になぜ「碍」を外したのか、「害」しか使えないようにしていったのかということがすごく疑問なんです。なぜなら、「害」にいい意味はないからです。
さらに、一九五九年、石橋湛山先生が周恩来さんに手紙を書き、その中で、できる限り国境の障碍を除去しと、この障碍は「碍」を使って、できる限り国境の障碍を除去しと、「碍」を使って手紙を書き送っています。 私、そもそも、一九四六年に、当用漢字表になぜ「碍」を外したのか、「害」しか使えないようにしていったのかということがすごく疑問なんです。なぜなら、「害」にいい意味はないからです。
ただし、やはり、漢字圏の人たちに「害」の字で障害という言葉を読ませるというのは、大変に日本という国を誤解させることにつながるのではないかということで、実は大臣、一九五九年に、石橋湛山先生が周恩来さんに石橋三原則ということで書簡を送っているわけですけれども、その三原則の二に、経済において、政治において、文化において、できる限り国境の障碍を除去し、お互い交流を自由にすることというふうな書簡を送っているんですけれども
石橋湛山先生、河野一郎先生、松村謙三先生、三木武夫先生、こういう方々が日米安保条約の採決のときでさえも棄権や欠席をされております。 そこで、最後に外務大臣にお尋ねしますが、この戦後政治における宏池会の果たしてきた、いろいろな外交的な岐路がありましたが、その意義、そして、今回の法案、本当にこれでいいと思いますか。責任ある立場にいらっしゃる大臣のお考えをお聞かせください。
まず第一点は、石橋湛山先生は、我が郷里の生んだ唯一の総理でございます。そういった意味では、私も石橋湛山先生を目指して政治活動をしてきた人間でございますので、その石橋湛山先生の言葉というのは十分私も心得ているつもりでございます。大変リベラルで、経済通で、そういった意味では、私もそういう政治家になりたい、そう思ってやってまいりました。
私は学生時代に、早稲田ですけれども、私淑していた、私淑というか、その本を読んで尊敬を申し上げておりました石橋湛山先生は、日米中ソ平和同盟ということをおっしゃっておられました。当時は全く相手にされなかったそうでございますけれども、今でいうと日米中ロ、さらにそれに韓朝、将来は日米中ロ韓朝平和同盟をつくるんだというぐらいのビジョンをしっかり持ってやっていかなきゃいけないんじゃないかなと。
○麻生国務大臣 石橋湛山先生、吉田茂ともに、当時の軍閥にかなりやられていますし、吉田茂は、たしか陸軍の刑務所にかなり入っていて、陸軍の刑務所が焼けなければあそこで死んでいるはずだったんでしょうけれども、なかなか人間の運命というのは難しいものだなと思います。
石橋湛山先生が早くから地方分権を、特に税源移譲というものを唱えてこられました。 「地方分権推進の必要性」が三にございますが、現在は高コスト不満足社会と言っていいのではないかと思います。
また、石橋湛山先生を、また大先輩のお名前を挙げられながら、出処進退についての御注意をいただきました。御忠告はありがとうございます。 残余の質問は関係大臣から御答弁をいたします。(拍手) 〔国務大臣松永光君登壇〕
しかし、石橋湛山先生が言っておられるのは、政治家というのは国民の声を聞かなければやれない仕事だ、しかし国民の声ばかり聞いておってはやれない仕事だと。私は、これは名言だと思うのですね。
次元は異なりますが、一九二〇年代、後に自由民主党二代目総裁になられた石橋湛山先生が大日本主義の幻想を厳しく戒められていらっしゃいますが、我々は改めてその問題を考える時期に直面しているのではないでしょうか。総理の御見解をお伺いしたく思います。
通産大臣で文部大臣でありませんので、ここではっきりと大学認可しますということは申し上げられないのも御理解を賜りたいと思いますし、また、先生既に御承知のように、十年前と違って、今大学の認可というのが非常に厳しい状態であることも事実でありますが、そういう前提の中で富士宮市、今懐かしく聞いておりましたけれども、実は私ごとを申し上げて恐縮ですが、私は早稲田大学を卒業したときに、当時鳩山内閣の通産大臣だった石橋湛山先生
大日本主義に対して、自民党の大先輩である石橋湛山先生は、小日本主義でなければいかぬ、小日本主義であってこそ日本の繁栄はあるし日本国民の幸せがある、大日本主義をとるべきでない、こういうことを力説をされた。これは政治の場におるときでなしに新聞記者時代にそういうことをしばしば論文に書かれておったわけです。
○井上(泉)委員 石橋湛山先生は、確かにそういう大臣の言われるような政治姿勢で貫かれておったということは、湛山先生の著にも、そしてまた石田博英先生の著にも明記をされておるし、私はこういう立派な先輩政治家の流れを、今日の自民党政治の中で、竹下内閣の中で、経済的にも非常に摩擦の多い今日、この自由貿易体制というものを堅持しなければならぬと、これは石橋湛山先生も指摘をされておったことですから、そういうことから
○田村国務大臣 石橋湛山先生という方は、経済学者であると同時に、かつ偉大な経世家でありました。 先生は、常に私たち若い者に対してこういうことを教えられた。それは、過去においては軍事力ということで大国、小国を決めた、これからの時代は、文化の香り高い経済国のその力をもって国の力の大小を判断しなければならぬ、決して軍事力を誇るような国にしてはならないのだということを教えられました。
それで、私は当時石橋湛山先生に非常なあこがれを抱いておりまして、総裁選挙において、本来私の立場からいえば石井光次郎先生の応援をしなければならぬ立場であったかもしれませんけれども、私は石田博英さんらとともに一生懸命に石橋湛山先生の応援をして、そして湛山先生が内閣総理大臣として晴れて昭和三十二年の一月四日に神宮参拝をされたとき、その御案内役をいたしたことでございました。
(拍手) また、戦後、自民党総裁として短い期間でありましたが首相になられた、竹下総理の大学の先輩、早稲田の先輩の石橋湛山先生は、一九二一年「大日本主義の幻想」という論説の中で、植民地を放棄せよ、軍事費を削減し、国の経済力を高め、平和的な貿易を進めることにより国民の暮らしを豊かにせよと論じました。
それから、次の問題は、本院の先輩であります石橋湛山先生の問題でございます。 御指摘のありました論説「大日本主義の幻想」、この中で軍事費を削減して国の経済力を高めよ云々と主張されておりますが、これは一九二一年でございますから私どもが生まれる前、こういう御発言を堂々と行われたということは、やはり強い印象を受けた論文であるというふうに理解すべきであると思っております。
日本と中国の友好関係というのは、お互いの政府が承認し合って平和条約を結んだとかそれだけではないんだ、そのずっと前からお互いの人たちが友好のために、親善のために交流を行ってきた、具体的に片山哲先生だとか石橋湛山先生だとか松村謙三先生とか名前を挙げられて、こういうたくさんの人たちが交流をし合いながら友好のためにお互いに努力をしてきた、また、各団体や各政党もそうなんだ、だからそういうものの上に立って今日の
それをちょっと私申し上げて、きょうの質問をまた後日に譲りますが、あなた方、石橋湛山先生というのを御存じだろう。これは我々よりは、かえって自民党の先生方の方がよく御存じだろう。石橋湛山先生が、戦争に負けた後、「東洋経済新報」の中に自分の署名を入れて社説を述べられた。そのときに述べられた意見は何だ。石橋湛山先生は「靖国神社廃止の議」だ。靖国神社をやめてしまえ。
戦後の政治家といったら、私は石橋湛山先生の言葉をよく思い出す。政治家というものは高い理想を掲げて国民とともに進めば、国民は必ず理解をする。ひとつ高い理想を掲げてこの誤った日本の教育の荒廃にメスを入れ、義務教育正常化のために両党一緒になって努力をしなければならないと私は考え、きょうは立たせていただいた次第であります。 以上をもって質問を終わります。ありがとうございます。
石橋湛山先生が書かれたものの中に、最近流行と言っては悪いかもしらぬが、ソ連脅威論等に対して、ソ連といえども鬼でもなければ蛇でもないということを言われた言葉もある。
○塩崎政府委員 ケインズあるいは石橋湛山先生の言葉は名言だと思うのでございます。金という特定の商品にリンクした通貨制度あるいは米国ドルという一国の通貨にリンクした世界通貨の制度、こういったことは確かにいろいろの面において弊害があることも事実でございまして、そういった意味でSDRを中心とした管理通貨的な制度が世界の中で採用されればこれは大きな進歩だ、こんなふうに私は考えるわけでございます。
終戦後、私はいろいろな総理の皆さんとおつき合いしたが、やはり一つの政治哲学を持っていたのは、いい悪いは別として、吉田茂先生、中途に倒れたが石橋湛山先生だと見ているのです。私は、いまくらい政治に哲学の必要な時代はないと思うのです。 そこで、あなたが五大国か六大国か首脳会議に国会をあけて行くわけですが、一体何を語り、何を話し合おうという考えがあるのか。